いずれの説も神域に人が踏み入れることを戒めるものです。
登頂を制覇と表現することもある昨今ですが、古来、登山に際して心身を清めて登らせていただく姿勢があります。我欲を捨て清められ、無私となることで神域に入ることが許され、神に近づくことができると考えてきたこと、山そのものに畏敬の念をもってきたことがわかります。
また、ある筈のものを消すことで逆にその存在を示し、絶対的な尊いものに対しての、人の謹み・奥ゆかしさの大切さを伝えているともいえます。
[ 参考 ]
「ふじの山」を表す漢字は、富士、不二、福慈など様々にありますが、古代日本は音を重視する文化であって、形としての漢字を音にあてたことは、比較的時代が下ってからのこと、これら上記の説も江戸~明治にかけて起こったものと考えられます。