諸説ありますが、現在の固有名詞としての「富士山」の「富」の1字を山そのものに見立てた説が多くあり、よく言われる例を以下に挙げます。
- 「御山の上に人は立てない」説
ウ冠の点を人に見立てて、本来禁足地であること、或いは尊い山である為人が 崇める(下から見上げる)山であることを表した。
- 「神は見えない」説
点を神に見立てて(1とは逆に)、尊いご存在は目に見えないことを表した。 (午王という札などにその配置の絵が描かれています。)
- 「山頂は神域」説
ワ冠から下を8合目以下に見立てて、点の示す山域は、神の土地であることを 表した。
いずれの説も神域に人が踏み入れることを戒めるものです。
登頂を制覇と表現することもある昨今ですが、古来、登山に際して心身を清めて登らせていただく姿勢があります。我欲を捨て清められ、無私となることで神域に入ることが許され、神に近づくことができると考えてきたこと、山そのものに畏敬の念をもってきたことがわかります。
また、ある筈のものを消すことで逆にその存在を示し、絶対的な尊いものに対しての、人の謹み・奥ゆかしさの大切さを伝えているともいえます。
[ 参考 ]
「ふじの山」を表す漢字は、富士、不二、福慈など様々にありますが、古代日本は音を重視する文化であって、形としての漢字を音にあてたことは、比較的時代が下ってからのこと、これら上記の説も江戸~明治にかけて起こったものと考えられます。