北口本宮冨士浅間神社の火祭り(鎮火祭)

吉田の火祭り(鎮火祭)

 「吉田の火祭り」は、北口本宮冨士浅間神社とその摂社である諏訪神社の祭として、現在は「鎮火祭」という名称で8月26・27日の2日に亘って行われ、特に8月26日の夜、町中で大松明が焚き上げられることでよく知られています。

 「鎮火祭」の名の示すとおり、富士山の噴火を鎮める祭であり、御祭神が猛火の中でご安産なされた故事に基づくとされています。古くからは「日本三奇祭」、昨今は「日本10大火祭り」の一つに数えられ、山梨県の無形民俗文化財に指定されています。


鎮火祭の見どころ

吉田の火祭り(鎮火祭) 「吉田の火祭り」として一番に挙げられるのは、やはり26日夜に大松明(おおたいまつ) が焚き上げられる様子でしょう。しかし、2日に亘って行われる祭の中には地元の人にもあまり知られていない行事もあり、その「空気感」の中に祭の本質があるとも言われています。「まつり」の「待つ」(侍る、神のお出ましを願う)雰囲気や、目に見えないものを“感じる”極めて日本的な側面(触れて確認する西洋文化と異なる)を、漠然とした中に感じて頂ければ「日本・日本人」を理解する一端となるやもしれません。

 26日午後、まず浅間神社での祭が行われ、浅間様が諏訪神社へお遷しされます。氏子崇敬者が集う中を絹垣が厳かに奉遷される様子は圧巻で、これから神輿が出て行くまでの間、境内には不思議な高揚感が充満します。

本殿祭・遷御


松明点火 夕刻、神社から氏子中へお出ましになった神輿が一晩の宿とする「御旅所(おたびしょ) 」へ収められると、その威勢のまま直ちに、勢子(せこ) (担ぎ手)や氏子によって大松明が次々に立てられます。次いで、富士吉田市長や祭典世話係の長老(代表)を皮切りに順次点火され、辺りが暗くなる頃は赤々と燃え盛る炎を見ることができます。氏子は火の粉をよけながら歩き、太々神楽で賑わう御旅所へ参拝するなどして、御祭神のお出ましを祝います。

 明神型神輿の「お明神さん」にはお浅間様3柱とお諏訪様2柱がお遷しされており、噴火する荒ぶる富士を表す「御影(みかげ) 」(お山さん)には浅間大神の(あら) (みたま) が乗ると言われています。お明神さんは比較的年配の勢子によって大切に、お山さんは年若い勢子によって荒々しく渡御されます。途中、重さ1tものお山さんを落とすという、神輿に対しては珍しい行為を目にすることがありますが、これは御祭神の御神威の発揚を促し、荒ぶる富士を鎮める為に行われると言われています。

 お山さんは、「神様が乗ると急に重さが増す」とか、「西念寺の前を通る時、自然に傾く」など様々ないわれがあり、勢子を魅了してやみません。

金鳥居祭、引き続き神輿御影渡御 翌27日、子供神輿も合わせて全ての神輿が町へ担ぎ出され、富士みちと合流する鎌倉往還と御師町の境を示す「(かな) 鳥居(どりい) 」での祭が行われ、夕方まで氏子中を練り歩きます。富士吉田駅前でのお山さんはお山(富士山)の安全を祈るため、金鳥居の町境ではお明神さんが氏子中の平穏を祈るためにじっくり練られて、祈りが十分に極まると神社へ向かいます。


鞍馬石祭、引き続き神輿御影渡御 諏訪神社に関する祭が行われる頃、境内には神輿を待つ人が集まってきます。

 すっかり暗くなって上げ太鼓が響き、神輿がなだれ込むと同時に人々は神輿の後をついて「 高天原(たかまのはら) 」を回り、熱気の渦となって、祭の最高潮を迎えます。この時、「すすきの玉串」を持って安産・子授や無病息災を祈願する風習があり、勇壮な場面でありながら、女性や子供、年配の方などの参加も多く見られます。“昔は高天原に「すすきの仮宮」が建てられた”という伝承もあり、近年、27日のみを指して「すすき祭」とする別称もあります。

高天原祭 高天原を5回または7回まわって、神輿は一旦高天原へ収められ「高天原祭」が行われます。そしてようやく諏訪神社へ神輿が収められると、勢子は役目を終えて帰途につき、境内に静寂が訪れます。

 諏訪神社で還幸(神様にお帰り頂く)の祭が行われ、続いて浅間様をお遷しする行事が行われます。闇夜に浮かぶ提灯が白い絹垣を仄かに照らし、雅楽と警蹕が森にこだまする「奉遷」の様は実に厳かで、先程までの喧騒と前夜の炎の荒々しさとの対比が、清涼な夜の空気を際立たせます。

 こうして秋の訪れ~夏山の終わりを感じさせつつ、本殿にて還幸の祭が行われ、鎮火祭両日の結びとなります。

大松明(おおたいまつ)について

 大松明は、高さ2間/直径3尺ほど(約3m/90cm)の筍型に結い上げられ、金鳥居のある表通り(御師町)を中心に約80本が奉納されます。
裏通りの個人宅や富士山中の山小屋など(下暮地など氏子区域外・市外であっても「富士みち」に沿う家等)では、井桁に組んだ松明が焚き上げられます。この8月26日夜の町の様子は火の海と表現され、屋根に火の粉が降りかかることもありますが、これまでに一度の火事も起こしたことはないと言われています。

 そのため火防のまじないに松明の消し炭(オキ)を拾う風習があり、安産・子授や無病息災の御守として持ち帰る人もあります。運が良ければ御師の家の付近など、ご神火の前で加持祈祷を行う富士講行者の姿を見ることができるかもしれません。

※「オキ」の持ち帰りには作法があり危険も伴います。希望者は各人の責任でお願いします。

★大松明は、企業/個人、どなたでも奉納することができます。
★受付は祭典世話係が一括しております。詳細は神社へお問合せください。

諏訪神社と火祭り

諏訪神社還幸祭 現在は、北口本宮冨士浅間神社(以下、浅間神社)と諏訪神社、両社の祭で、浅間神社の大祭・特殊祭儀とされていますが、もとは諏訪神社の例祭であったと言われています。

 伝承によると“諏訪の神様が(神話にも描かれているように)追われて逃げていた際のある夜、当地住民が手に松明を持ってお迎えしたのを、追手は援軍と見間違えて退却したので、諏訪の神様は当地にしばらく滞在なさった、それでこの地を「諏訪の森」と呼び、地主神として諏訪神社を祀った”とされています。

 その故事を忘れないよう、住民が手に持った松明を大松明として焚き上げ、諏訪の神様を称えたのが火祭りの起こりとされていますが、諏訪神社の起源と共に詳細は不明です。

 やがて富士信仰が盛んになり、浅間神社の境内地が広がり勢力が増すにつれ、諏訪神社が吸収されて摂社となり、御師町の興隆によって氏神もまた浅間神社であるとされました。

 それでも地域住民には「地主神さんはお諏訪様」「火祭りは諏訪さんのお祭」という認識が今も根強くあり、一年以内に身内に不幸があった場合は「手間取り」或いは「ブク」といって祭の一切に触れることを避ける風習があり、「お諏訪さんはおっかない」と、祭に忌事を持ち込まないようにされています。

 諏訪大社の御射山祭や、諏訪神社の別当寺であった時宗西念寺のこと、方言が似ている(甲府盆地の向う側にも関わらず)などから、諏訪と吉田は深い関りをもってきたと推測され、多方面から調査されています。

祭典世話係(世話人)について

 氏子区域(富士吉田市上吉田・中曽根の全域、新西原・鐘山の一部)に居住または就労する厄年(42)以前の既婚男性より14名が、氏子若衆の代表として毎年選出されます。氏子区域(上町・中町・下町)を分担して、祭典にご奉仕頂いています。

 「吉田の男は世話人をして一人前」と言われ、年代も職業も趣味も違う見知らぬ14人が、神社という非日常の諸々に関って苦楽を共にすることで生まれる絆は一生モノと言われます。特に「吉田の火祭り」という大きなお祭を担い、27日に神社へ神輿を収めた時は疲労困憊の姿の中に成し遂げた誇りが輝き、人々に感動を与えます。

 昨今は、会社や結婚等の社会事情の変化など、該当者の減少により、選出が難しくなってきています。しかし「世話人をやってよかった」という声が多く聞かれるようになりました。

<参考資料>

 『北口本宮冨士浅間神社誌略』
  北口本宮冨士浅間神社社務所 『鎮火祭』/北口本宮冨士浅間神社/茂木貞純著

 『吉田の火祭』
  国記録選択無形民俗文化財調査報告書/富士吉田市教育委員会

 『富士吉田の火祭りと富士講 調査と研究』
  國學院大學 儀礼文化研究会編

 『上吉田の民俗―富士吉田市上吉田』
  富士吉田市教育委員会市史編さん委員会

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