富士講と御師

富士講・御師

 古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。

講(講社)とは 晴天に遥かに望む富士へ行きたい、登って拝みたいと願う者が増すのは当然のことでしょう。入山者の増加につれて険しい山内に踏道も出来て、庶民も登頂を目指せる状態へ近づいていきました。
しかし、江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅(運よく好天に恵まれた場合)は、現在からは想像もできない程の時間と費用がかかりました。
そこで、庶民に信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び皆の祈願を託す「講」の仕組みを利用するに至ったことは想像に難くありません。
こうして、近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 ~富士講~」が成立しました。

~江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。~

富士講の様子 江戸時代、富士講はこう言われるほど爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、また富士塚が築かれるようになりました。

 各地の富士塚では毎年7月1日の開山に合わせて祭りが行われているところも多く、廃絶の途をたどる富士講と言われながらも今なお地域の人々(氏子)の心に根ざしています。

 こうして本来禁足地であった富士山は、修験者の修行の山となり、やがて身近な信仰として一般の人々も参詣するようになり、信仰の霊山・聖地を訪れるために人々ははるばると旅をしました。

 道中の各所に宿坊ができ、特に江戸をはじめ関八州(関東)からの拠点として便利であった、北口(吉田)に「御師(おし)」が出現しました。

 御師は、宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなど、富士信仰の全般に亘って世話をする存在でした。御師町は、富士山の雪代や噴火の被害による移転もありましたが、現在の上吉田に整備され、入口・境界を示す「金(かな)鳥居(どりい)」が立てられました。(現、富士山駅東側)

 御師は富士信仰の隆盛と共に発達し86軒を数え、また御師町の発展とともに、江戸近郊の農村地にも富士講が増えていきました。

 現在は約40軒が「御師団」に加入していますが、実際に講社を迎えて御師としての活動をしている家はわずか5軒です。富士講は、かつての栄華に比べてか細くなってしまったものの、今もなお古の教えを継承し、縁の祭典の折にはお焚上や塩加持等の神事、また夏期には登拝行事が行われています。

 この数年富士登山者が増加していることや、国内はもとより外国からも富士に心を寄せる様を見ても、日本の象徴たる富士への信仰の念は現代においても少しも色褪せてはいないと言えます。

角行さんと村上講

富士山 富士講の開祖とされる長谷川角行(藤原角行:1541.1.15~1646.6.3)は戦国時代に現れて、富士の人穴(富士宮市)や北口本宮参道の立行石等で荒行を重ねて法力を得、祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済しました。

 「富士は世界の鎮守」、「天地の始、国土の柱、天下参国治、大行之本也」として、富士信仰の心を士農工商の隔てなくあらゆる人に広めることとなりました。

 若き長谷川角行は、父の遺志を継いで救世済民の志を立て、諸国修行の旅に出ました。日の出を拝して覚る所あり覚行と名乗って修験の道に入り、岩窟で修行中、霊夢に現れた役行者の教示により富士山麓で苦行を重ね、大行を成就しました。名を角行と改め、藤仏と名乗り、元亀3年(1572)に初めての富士登山を北口(吉田口)から行いました。元和6年(1620)江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行し、3日で1千人の死者を出す中で、角行師はフセギという御符を授け祈祷の力によって多くの患者の命を救いました。このことから江戸の多くの人々に富士信仰の心が広まったといわれています。

 生涯に成就した苦行は、不眠の大行18800日、断食300日、富士登山128回、御中道33回である。他に約14cm角の柱や岩の上に爪立ちする難行や、諸国遍歴修行の旅、二荒山の湖水や内八海・外八海、人穴での修行を行っています。

 他に、「風先侎(ふせぎ) 」という護符を配布し、「御身抜(おみぬき) 」という軸装巻物を信徒に与え、神示によって360の文字を造り、護符や書物を著しました。「近の藤の御文」「御腺の御文」「躰堅めの御文」等は富士講の根本教義をなす聖典として、現在もなお重んじられています。

 角行の弟子と伝えられるのは、斉藤助盛(大法または泰宝)、黒野運平(渓旺のちの日旺)、半渓、法仏、大清、旺渓、旺法、光賢でしたが、法脈は渓旺(日旺)に伝えられました。

 日旺の弟子となる旺心は三世、四世月旺と続き、月旺には月心と月行の弟子がありました。月心は形を伝える正統派、月行は心を伝える別流(別立)と呼ばれ、藤原角行の法脈はここで二派に分かれました。

 この頃はまだ富士講の組織は存在せず、信仰を共にする小規模の師弟集団でしたが、正統の五世月心の子の光清が六世を継ぎ、村上講(藤の丸講)として最盛期を迎えます。この村上光清氏が当社の大修復工事を行いました。仁王門や鐘楼堂は明治に撤去されましたが、幣拝殿、神楽殿、随神門、手水舎、摂末社など現存の社殿および配置はこの時のものです。江戸の技光る荘厳優美な建築からも、元文4年に大岡越前守に御褒賞を賜るほどの大事業であったことが推察できます。(元文5年(1740)に完工)

 正統派・村上講はこの後、七世光照、八世照永、九世照旺、十世照清、十一世政徳、十三世光旺、十四世旺清、十五世清腥、十六代妙清、十七代善道と続きましたが枝講を許さなかったため漸次衰え、昭和に至って講伝来の御身抜や宝物を上吉田の和光氏に譲り、東京の講は消滅しました。

食行身禄

 角行師から数えて五世となる月行は、正統の法派を継いだ月心に対して別流として独立しました。伊勢国出身で、日本橋白銀町で煙草屋を営みながら修業に励む途次、若く実直な伊藤身禄に出会い、熱心に富士信仰の道を説きました。深く感銘を受けた身禄は、月行の弟子となり行商で身をたてつつ信仰を深めていきました。

 やがて身禄は元来の勤勉実直さにより莫大な資産を築きましたが、60才の時、全財産を残らず使用人に分かち与え、自身は行商人に戻り、妻子とともに質素な暮らしを始めました。当時華やかな正統派の「大名光清」に対して「乞食身禄」とまで言われながらも三著といわれる「一字不説の巻」・「御添書の巻」・「お決定の巻」を著し、四民平等・男女平等・勤勉力行・諸事倹約等、道徳規範を中心に富士信仰を説きました。

 しかし、人の心を掴むには、飛ぶ鳥を落とす勢いの正統派には及ばず、体力の衰えを感じた身禄は、ついに富士山中への入定を果たします。吉田口七合五勺の烏帽子岩の岩窟で、富士の雪水を飲むだけの断食瞑想、入定するまでの31日間に身禄が口述した仙元の神示教訓が「三十一日の巻」として記録されました。これがのちに富士講最高の経典となるもので、身を捨て命を捧げて示した不滅の教訓として大反響を呼び、元祖食行身禄と称えられ、「講」の形態をとる富士講の興りとなって「身禄講に非ざれば富士講に非ず」とさえ言われるまでになりました。

 食行身禄の娘の流れから丸嘉講、丸参講が起こり、その後に丸鳩講、不二道孝心講、その一派に実行教、更に一山講、永田講、丸藤講、山吉講、山真講など、身禄の縁者、直弟子孫弟子により続々と富士講が組織されていきました。

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